聖光上人ご法語
前編第一 『浄教に帰入』
夫れおもんみれば、九品(くほん)を宿とせんには称名をもって先と為す。八池(はっち)を棲(すみか)とせんには数遍(すへん)を以て基(もとい)と為す。念仏とは昔の法蔵菩薩の大悲誓願の筏(いかだ)、今の弥陀覚王の広度衆生の船。是れ即ち菩薩の利益衆生の約束、是れ即ち如来の平等利生の誠言(じょうごん)。もっとも馮(たの)もしきかな、ゆえに弟子昔は天台の門流を酌んで円乗の法水(ほっすい)に浴(よく)せしかども、今は浄土の金地(こんち)を望んで念仏の明月(めいげつ)を翫(もてあそ)ぶ。ここを以て四教三観(しきょうさんがん)の明鏡(めいけい)をば相伝を証真に受く。三心五念(さんじんごねん)の宝玉(ほうぎょく)をば禀承(ほんじょう)を源空に伝う。幸いなるかな、弁阿(べんな)血脈(けちみゃく)を白骨(はっこつ)に留め口伝を耳底(じてい)に納めてたしかに以て口に唱うる所は五万六万、まことに以て心に持(たも)つ所は四修三心なり。此れに依って自行を専(もは)らにするの時は口称の数遍を以て正行(しょうぎょう)と為し、化他を勧むるの日は称名の多念を以て浄業(じょうごう)と教う。
前編第二 『聖道を棄て浄土に帰す』
曇鸞・道綽の二師、像法(ぞうぼう)の終り末法の始めに出て、忝けなくも釈尊の使者と為って。特(ひと)り弥陀の教法(きょうぼう)を弘む。鈍根無知の我等、たとい聖道の根機に漏れて、即身に断惑(だんわく)することを能わずと雖も、すでに念仏の法雨を降らす。誰れ人か甘露の妙味に潤わざらん。然れば則ち、先に聖道を学する人といえども、もし此の旨を知ることあらば、いずくんぞ聖道を棄てて、浄土に帰せざらんや。
前編第三『聖浄兼学の人』
沙門某甲、昔聖道門を学せしの時、いささかの浄仏国土、成就衆生の義を習い伝え、今浄土門に入るの後、また此の選択本願念仏往生の義を相承す。二師の相伝を以て聖教の諸文を見るに、その義、更に以て教文に違わず。単に聖道門の人、単に浄土門の人は之を知るべからず。聖道浄土兼学の人これを知るべし。此の意を得てより一切の大乗経を披き、一切の大乗論を見るに、随喜の涙禁じ難し。此れ則ち聖教の源底なり、法門の奥義なり、仏菩薩の秘術なり。
前編第四『阿弥陀仏の正意』
阿弥陀仏は人に幸せを授け、寿命を延べ、官位を施したまうという様々の利益はみな是れ傍意なり。ただ是れ阿弥陀仏の正意は一切衆生を極楽浄土に往生せしめんと思しめすこそ此の仏の正意なり。本願にて候。阿弥陀仏の本願往生と申すは、いかなる人までも十方の衆生ただ名号を唱うる人、みな浄土へ迎えたまうを念仏往生の本願とは申し候なり。
前編第五『念仏往生の願』
阿弥陀仏の凡夫にて法蔵比丘と云われたまう時、世自在王仏と申す仏の御前にて四十八の大願を発したまう時、その四十八願の中に第十八願は念仏往生の大願なり。彼の念仏往生の意は、我れ仏に成りたらんに十方の衆生、我が浄土にうまれんと願じて、我が名を称えんに生ぜずと云わば、正覚を成ぜじと立てたまえるなり。此れを一切衆生念仏往生の本願と申すなり。
前編第六『彼の仏の願に順ずるが故に』
天台の学者円鏡房、円蔵房、巻柱の豎者、専修の行を訪う。先師、三箇国修行の時、彼の学者らに対して教えて云う、善導所釈の文字一つに習い入る形。謂わく順彼仏願故の故の字是れなり。念仏には順彼仏願故あり、これに翻ずるに余行には仏願に順ぜざるの故あり。乃至、光明の摂不摂、化仏の讃不讃、付属の有無、証誠の有無等、皆これ仏願に順ずると順ぜざるとの差別なりと説かるる時、三人みな一帰して毎日六万遍の念仏を請じ奉り畢んぬと。
前編第七『末法の無智破戒の人』
善導の御心は、世を云えば末法なり、人を云わば破戒なり、智恵を云わば極めて邪智なり。人、口には経をよみ参ずれども、心には様々の妄想心を発す身に、修行をすれども心には憍慢あり。わずかに戒を持てども破れやすく、塵ばかりの智恵を以て人に倍したりと云う邪智を発す。されば法花経よりも生死を出で難く、真言よりも生死を出で難し。善導この旨を悟り得て、末法に時を得、愚かなる無智の人々の機を得て、かかる浅ましき者どもに、さて生死を得出でずして止むべきことはとて、ただ深く阿弥陀仏の不思議の願力を信じて、念仏一脈に成れと勧めたまえるなり。
前編第八『真実心』
弟子、弁阿弥陀仏よくよくもろもろの人々に皆心得させんが為め、四句を作って末代に送る。内虚しく外(ほか)実(まこと)なるこのひとは往生に非ず。内が実に外が虚しきは往生の人なり。内外(ないげ)倶(とも)に実なるは決定往生の人なり。内外倶に虚しきは此れ世間の罪人なり。善導所立(しょりゅう)の浄土宗の意は、この四句の中に第三内外倶に実なる人を以て本意とす。内に真実往生の志深く、外には無間に念仏申す。是れ真実一向専修の念仏者、決定往生の行者なり。
前編第九『至誠心』
第一に至誠心と申す文字をば訓に読むには、誠(まこと)の心を至(いた)すとよむなり。偽(いつわ)る心は実(まこと)の心に非ず、厳(かざ)る心は是れまた誠の心に非ず。誠の心と申すは慥(たし)かなる心を申すなり。誠の心と申すは空しからぬ心を申すなり。誠の心を申すは虚仮の心なきを申すなり。誠の心と申すは雑毒の心なきを申すなり。この雑毒虚仮の念仏が往生を得ざる念仏にて候。この雑毒虚仮の心なくして真実の心を以て申す念仏は一(いつ)も虚しきことは無し。先ず雑毒虚仮の心無しということを知りて是れを留(とど)むべし。是れを忌むべし。
前編第十『雑毒虚仮の人』
世間の人その心、偽り飾って誑惑(おうわく)の心持ちたる人侍(はべ)るなり。かかる心たしかならぬ人の中に謀りごとを構ゆる様は、いざや世の中に不思議の念仏者と思われて、余の人にも勝れて貴く思われ、あるいは情けもある者とも思われんなどとて、人目ばかりに道心あるように見えて、物の哀れなる気色(けしき)にて隙も無く念仏申して、声も貴げにいつくしくつくろい、振る舞いも誠しく心にしめたる様に持てなして、その心中には邪見にして露ばかりも後世を思いたる事は更に無し。さればこの人の心中には虚仮にして徒ら事を思い、外(ほか)の人目には貴く見えて侍るなり。かように謀り事を構ゆる人を誑惑の人と申し、偽り人と申す。是を雑毒とも是を虚仮とも申す。
前編第十一『深心』
我は何ともあらばあれ、ただこの念仏の一脈(ひとすじ)を深く信じとって、我が身はかかる浅ましくうたてしき身なれども、忝なくおわす阿弥陀仏の本願に値(あ)い奉る。この念仏を申さば決定して往生すべしと思いとりて、更に念仏を疑わず、是れ則ち深く信に至って申す念仏なり。
前編第十二『深き心』
第二に深心とは深き心なり。この念仏は疑いなく決定して往生するぞと信を取って思い定むるなり。その故は阿弥陀仏の発しがたきを発し給える念仏往生の本願なるが故なり。但し究竟の智者たちの中にも疑いをなす人あり、それも道理なり。凡夫なるが故に、況んや愚かなる無智の類いは疑いを成さん事うちまかせたる理(ことわり)と覚ゆ。但し念仏を習うと申すは法を習うなり。この深心をだに習いとりぬれば、三心は自然(じねん)に具すと習うなり。
前編第十三『廻向発願心』
第三に廻向発願心とは、廻向という文字をば廻し向へとよむなり、発願と云う文字をは願い発(おこ)すとよむなり。されば我がこの申したる念仏を以て極楽に往生せんと思う志は廻し向ける心もあり、往生を願う心もあり、故に是れを廻向発願心というなり。世の中の人、功徳善根を造って志(こころざし)願い思い廻らすを廻向発願心というなり。
前編第十四『臨終正念往生極楽』
大般若経・仁王経等を読み奉りて、世の常の人は是れ世の中の殃(わざわ)い至らん事をも防ぎ、幸いならん事と思いて、後を祈る。後世のためにはよむ人更に無き事なり。熊野へ参詣し、三所へ参る人も大様(おおよう)は現世安穏の悦びを賜うらんと祈れども、後世菩提を祈る人は甚だ希なり。また念仏申せども加様(かよう)に願わば往生はしそこないつべきなり。いわゆる我が此の申し念仏を以て阿弥陀仏、福をも賜い御座(おわしま)せ、また命を延べさせ給え、幸せをもあらせ給えと願い志して、加様に廻向せば往生し損ないつべきなり。されば第三の廻向発願心と申すは、かく申したらん念仏の功徳を以て、ただ一脈に臨終正念往生極楽と願い志せと云うを廻向発願心と云うなり。
前編第十五『廻向発願心の能障』
所修の念仏の行を以て、或いは自身の息災延命を願じ、或いは寿命長遠を願じ、或いは福徳を願じ、或いは勝他名聞を願じ、或いは恭敬供養の名聞を願じ、或いは所知所領を願ず。かくの如き種々不定の所求の願は、是れ浄土の廻向発願心の能障なり。
前編第十六『決定往生せんと思う心』
決定往生せんずるなりと思い取って申す念仏は、誠の心を至さんと教ゆる至誠心も此の心に納まりぬ。またこの阿弥陀仏の本願に疑いを成さず、決定往生すべきぞと思えと教ゆるに、深心も此の内(なか)に納まりぬ。第三の廻向発願心も申したらん念仏を一脈に決定往生せんずるぞと願えと教ゆるに、廻向発願心も此の内に納まるなり。明らかに知んぬ、決定往生せんと思い切って申す念仏に三心はみな納まるなりと云う事を。
前編第十七『百人百生』
此の三心を具足して申す念仏は、百人は百人ながら往生す。千人は千人ながら往生す。もし此の三心具足せずして申す人の念仏は、百人が中に一人も往生せず、千人が中に一人も往生せず。されば念仏申して往生せんと思わん人は、此の三心の所によくよく心を留めて見るべし。
前編第十八『自然に三心を具す』
よくよく極楽を欣(ねが)い、よくよく阿弥陀仏を心に染めて申し居たるほどに、自然(じねん)に三心を具足するなり。無智の人の申すは、主は我が身に三心を具したる事をしらねども、三心を知りたる人の、此の人に付き副(そ)いて見れば、夜は終夜(よもすがら)申し昼は終日(ひねもす)に申す。近くよりて問えば此の人の申す様(よう)は相(あ)い構えて、此のたび往生せんと思い取りて、此の念仏を申し始めてより、更に怠ること片時も候らわず。此の念仏を申しつけられて忘れ難く候なりと。かく委しく物語りするを聞くに、みなこの三心を学ばす習わず、よくよく習いたる人に少しも劣らず。此の人は是れ自然に三心を具したる人なりと。
前編第十九『三心の具・不具』
問う。善導の疏の如き三心とは至誠心・深心・廻向発願心等と委しく以て之を釈す。もし爾(しか)らば有智の人は之を知るべし。無智の倫(ともがら)は之を知らず。もし知らずんば三心を具すべからず。三心を具せんずば往生を得べからず。いかん。
答う。師の云わく善導和尚の意は、決定往生の信心を発して、一向専修の念仏を行じ、偏(ひとえ)に臨終正念を期して退転懈怠無き者は自然に三心を具するなり。経文釈文の意この趣(おもむき)を出でず。然れば則ち善導所立(しょりゅう)の一向専修は広大慈悲の支度を構え、正義正理(しょうぎしょうり)の方便を設け、末代愚鈍の衆生に与えたまえる決定往生の要法なり。
前編第二十『安心と起行の疑い』
安心疑心(あんじんぎしん)と云うは、念仏ばかりにては往生ほどの大事をばいかが遂ぐべき。わずかなる六字の名号の童部(わらわべ)までも是を知らぬはなし。智者学匠めでたき人々こそ往生はせんずれと疑う。是れ往生せぬ疑心なり。是を安心の疑いというなり。次に起行の疑心と云うは、念仏は決定往生の行なりと信じての上に、凡夫なれば我が身の悪きについて疑うなり。疑と云うとも、日行(にちぎょう)をばかかず、随分の止悪修善をもはげみて願力をたのめば往生するなり。また是れについて往生せざるあり。我が身のわろきについて身を疑うほどに、やがて行にとおざかりて、随分の悪をも止(や)めず、往生の心もうすくなりて、厭心も疎なれば、此れ疑いて往生せぬなり。
前編第二十一『信心厚き人』
誠に往生の志深く信心厚き人は、必ず此の一生に於いて正助二行を専修し、四修に之を修し、命終の時に臨んで阿弥陀、観音の来迎を待ち、志を浄土に運ぶ。此の人を以て専修信心の行人と為し、四修三心五念門具足の人と為し、此の人を以て如法如説・勇猛精進の行者と為し、此の人を以て決定往生の念仏者と為す。
前編第二十二『心と行』
行は必ず心(しん)が勧むるなり。行が心を勧むるを知るべし。南無阿弥陀仏と申す時、心を勧むる様は、これは往生せんためなりと思いて、心をなおすなり。心が行を励ますことを知るべし。行が心を励ますこともあり。一向に云うがわろきなり。心が心を勧め、心が行を勧め、行が行を勧め、行が心を勧むるなり。
前編第二十三『五種正行』
読誦正行の事。広く通じては三部経を読誦すべし。別しては略して阿弥陀経を読誦すべし。之に依りて上人在生の時、阿弥陀経を長日(ぢょうじつ)に三巻これを誦しませり。
観察正行の事。行者の根機に依りて観門も広略を行ずべし。もし観経に依らば十三観を用うべし。もし観念法門に依らば総想別想の二観を用うべし。もし恵心先徳の往生要集に依らば略して三種の観の中の一観を以て之を用うべし。その意趣、行者の志にまかす。
礼拝正行の事。礼拝に上中下あり。行者の根機に依るべし。但し多分は下根の礼これを用うべし。昔上人在世の御時、予に示して云わく、宇治の辺(ほとり)に住せる行者あり、坐ながら礼拝を修して、終に以て往生を得おわんぬと。
口称正行の事。心には往生の念(おも)いを志し口には南無阿弥陀仏と称す。
讃歎供養正行の事。もしは二行と為すべきか。一つには讃歎正行、二つには供養正行。凡そ五種正行是の如し。但し一人して具さに五種を行じ、もしは一種二種もしは三種四(し)種、行者の機根に依るべし。
前編第二十四『往生の正業』
正業(しょうごう)とし奉る心は、平等の功徳と成るが故なり。平等の功徳と申すは、南無阿弥陀仏と申す事はいかなる人の口にも唱えらるる事なり。いわゆる貴き人の口にもまずしき人の口にも、智恵ある人の口にも智恵なき人の口にも、徳ある人の口にも貧窮(びんぐ)の人の口にも、幼き人の口にも年老い人の口にも、幸せある人の口にも幸せなき人の口にも、誠にかかる目出度(めでた)きと侍りて、普くもろもろの万人を極楽に導き渡す、功徳善根のあまねく衆生を利益し度する事は、ただ此の念仏なり。故に往生の正業と申すなり。
前編第二十五『念仏の助業』
助行(じょぎょう)にまた四つあり。一つには三部経を読誦す。此れは経を読まんには浄土三部経を読んで念仏を助くべし。三部経を読むは念仏を助くる要業(ようごう)と成る。浄土の三部経ならぬ余経を読むは念仏の要と成らず。故に浄土の三部経を読むを念仏の助業と云うなり。
二つには阿弥陀仏を観念す。此れは阿弥陀仏の極楽を観念するに、念仏を助くる要と成る。余の観は念仏の要と成らず。故に阿弥陀仏を観念すれば、念仏の助業と成ると云うなり。
三つには阿弥陀仏を礼拝す。此れは阿弥陀仏を礼拝し奉れば念仏の助業と成るなり。余の仏を礼し奉れば念仏の助業を成らず、故に阿弥陀仏を礼拝し奉れば念仏の助業と成ると云うなり。
四つには阿弥陀仏を讃嘆(さんだん)し供養す。此れは阿弥陀仏を讃嘆供養し奉れば念仏の助業と成り、余の仏を讃嘆供養し奉れば念仏の助業と成らず。故にひとすじに阿弥陀仏を讃嘆供養し奉るを以て念仏の助業と云うなり。
上件(かみくだん)の四行(しぎょう)これを念仏の助業と云うなり。
前編第二十六『恭敬修』
第一に恭敬修(くぎょうしゅ)とは、先ず念仏とは本尊持経(じきょう)をもうけて貴く道場を荘厳して、その中に於いて東向きに阿弥陀仏を置き奉り、香花灯明(こうげとうみょう)、時の菓子を備え、我が身手(しんしゅ)を洗浴(せんよく)し、口を濯(すす)ぎ、袈裟衣(けさころも)を着(ちゃく)すべし。もし男女(なんにょ)は新しき衣を着、もしよごれて不浄に覚えたる着物をば着すべからず。さて道場に入(い)りて仏を見まいらせて畏(かしこ)まりて、もしは手を合掌し、もしは香炉を取り、もしは念珠を持ち、もしは持たずとも申さん念仏は是れ恭敬修の念仏なり。また道場に入らずとも、ただ手を洗いうがいなんどして、西に向かいて申す念仏は是れも恭敬修形。
またのたまわく、恭敬修とは極楽の三宝を恭敬修し、あるいは娑婆の住持の三宝を恭敬す。娑婆の住持の三宝とは、一つには仏宝とは木像画像の阿弥陀、本尊是れなり。二つには法宝(ほうぼう)とは黄紙朱軸(おうししゅじく)の浄土三部経、持経是れなり。三つには僧宝(そうぼう)とは念仏修行の好伴同行(こうはんどうぎょう)なり。善知識是れなり。
さらにまた恭敬修。または慇重修(おんじゅうしゅ)と名づく、憍慢の心を対治(たいじ)す。礼讃に云わく、彼の仏および彼の一切の聖衆(しょうじゅ)等を恭敬し礼拝す。
西方要決に恭敬修に五つあり。一つには有縁の聖人(しょうにん)を敬う。行住坐臥に西方に背かざれ。二つには有縁の像経を敬う。一仏二菩薩の像を造り尊経(そんきょう)を抄写(しょうしゃ)して恒(つね)に浄室に置く。三つには有縁の知識を敬う。浄土の教えを宣(のぶ)る人。四つには有縁の同伴を敬う。同修行の者。五つには住持の三宝を敬う。今の浅識(せんしき)のために大因縁となる。
前編第二十七『無余修』
第二に無余修とは、ただ一脈に彼の阿弥陀仏の御名(みな)ばかりを唱えまいらせて、余の行いの勤めを為さざるなり。是を名づけて無余修と云う、また専修(せんじゅ)とも云うなり。
またのたまわく、一向専修にして雑行無きを名づけて無余修となすなり。
さらに無余修。雑起(ぞうき)の心を対治す、是れ疑慮不定(ぎりょふじょう)の心なり。礼讃に云わく、専ら彼の仏の名を称し、専ら念じ専ら想い専ら礼し専ら讃じて余業を雑(まじ)えザレ。西方要決に云わく、専ら極楽を求めて弥陀を礼念(らいねん)す。但し諸余の業行(ごうぎょう)をば雑起せしめざれ。
前編第二十八『無間修』
第三に無間修(むけんじゅ)とは、隙(すきま)なく念仏を修するなり。また阿弥陀仏に於いて隙なくつかえたてまつるなり。或いは香花(こうげ)をまいらせて、阿弥陀経を読み奉り、念仏申して正行助行(しょうぎょうじょぎょう)隙なく修する、是を無間修と云うなり。故法然上人の仰せられ候いしは、この無間修が四修の中によくよく念仏を勧めたる修(おさめ)にてありと仰せ候なり。よくよく此の行に心を留むべきなり。念仏を構えて構え多からんに申せなんどと勧むるは、此の無間修の心なり。一万三万六万返ならんと勧むるはみな是れ無間修の心なり。是れを云われたる心なり。
またのたまわく、念念相続して正助二行を修するを無間修と名づくるなり。
さらに無間修。懶惰懈怠(らんだけだい)の心を対治す、是れ勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)の心なり。礼讃に云わく、相続して恭敬し礼拝し称名し讃歎し憶念し観察し廻向し発願し、心心相続して余業を以て来し間じえざれ。西方要決に云わく、常に念仏して往生の心を作(な)せ。一切の時に於いて心恒に想い巧すべし。所以(このゆえ)に精懃(しょうごん)にして倦(ものう)からざれ。当(まさ)に仏恩(ぶっとん)を念じて、報(むくい)の尽くるを期(ご)と為して、心に恒に計念すべし。
前編第二十九『長短の無間修』
無間修を悪様(あしざま)に云う人あり。いわゆる凡夫はいかでか此の無間修を修せん。その故は隙なく申すと云わば、夜は寝ることあり、昼は大小便利、或いは物を食らい、細々の用事どもあり、かようの凡夫の身には、いかんが此の無間修を修すべしと云う人あり。それか安きことを僻める人の僻様(ひがざま)に云うことなり。無間修には長短の二つあり。十返の内にも無間の心あり、二十返の内にも無間のことわりあり。或いは一万返の内にも無間のことわりあり。況や二万三万返の内に於いておや。故に十返は短(たん)の無間。二十返は長(ぢょう)の無間。一万返は短の無間。二万返は長の無間なり。是れを無間修と云う形。
前編第三十『長時修』
第四に長時修(ぢょうじしゅ)とは極楽に生まれんと願うて、先に明かす所の恭敬修・無余修・無間修、この三修を命を畢るまで修して、長く捨てずして往生する、是を長時修と云うなり。此の長時修を念仏について心得る様は、我れ極楽に生まれんと願じて念仏を三万にてもあれ六万にてもあれ、始めて申すに死ぬるまで念仏を申して、更に怠らず申すは、是れ長時修なり。
またのたまわく、正助二行に於いて発心より已来(このかた)、畢命を期と為して誓って中止せず。即ち是れ長時修なり。
さらに長時修。退転流動の心を対治す。礼讃に云わく、畢命を期と為して誓って中止せざるは、即ち是れ長時修なり。
西方要決に云わく、初発心(しょほっしん)より乃ち菩提に至るまで、恒に浄因を作(な)して終(つい)に退転すること無し。私に云わく、余行に准望(じゅんもう)して此の文意(もんい)を得るに、誓って中止せざれとは本尊並びに三宝を勧請し奉り、その宝前に於いて香華を辨備し、大誓願を発して往生の行業を始むべきなり。畢命を期と為して此の行に於いては永く以て退転すべからず。もし此の旨(むね)に違せば永く以て三宝の冥助を蒙らず地獄の薪とならんと。
前編第三十一『畢命を期と為す』
もし三万六万も念仏を始めて、一月二月(ひとつきふたつき)も申して、その後は打ち捨てて、一年も二年も念仏を申して、その後は打ち捨つる、長時修に非ず。善導和尚この長時修を釈し給う様は、畢命を期と為して、誓って中止せず、即ち是れ長時修なりと。この文の意(こころ)はもしは念仏にてもあれ、もしは礼拝にてもあれ、何れにてもあれ、往生極楽の勤めをし始むる時、本尊の御前にて大いに誓いを立てよ。いわゆる此の念仏もしは勧め、今日の只今始め候、命終わるまで此の念仏、此の勤めをは、し候べきなり。今日より後(のち)、命終らざる先(さき)、その中に更に怠るべからずと、我が本尊によくよく此の事を証(あか)せさせ給えと、かくの如く本尊に懸け奉りて誓いを成(じょう)ずべし。もし此の旨を背きて三万六万を始めて遂げずして、念仏も申さずして、空しく徒らに候ものならば、本尊の哀れみを蒙らず、もろもろの仏法守護の夜叉鬼神の御罰を厚く深く蒙るべし。此の誓いを立つべし。是れは我が心ながら、我が心の強く成り候なり。
後編第一『尋常行儀』
尋常行儀(じんじょうぎょうぎ)とは、尋常と云う文字をばよのつねとよむなり。是れ則ち先に注し申す長時修の行なり。世の常の行と申すは、毎日念仏を一万二万五万六万とも申すを、怠らず申す念仏は是れ尋常の念仏とも云い、または長時の念仏とも云う。または日料(にちりょう)とも云う。これ則ち尋常念仏と申すなり。
後編第二『尋常行儀の三種』
弁阿が義は尋常に三種あり。一つには道場に入らず浄衣を着せず、日を限らず、時を限らず、行住坐臥を簡(えら))ばず、時処諸縁を論ぜず、世の中の男女僧尼の日料の念仏三万六万申す、是れなり。二つには三万六万尋常に申し居たる人が、別時の念仏申さうと云いて、道場を洗い浄め、我が身を清浄にして、一日も七日も余言を交えず、不断に南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と教(きょう)の如く説の如く申す、是れは尋常の中の別時なり。また一度する人もあり、二度する人もあり、三度する人もあり、人に随いて替わるなり。また日別にする人もあり。三つには発心より已来(このかた)、命終わるまで月に一度別時する人もあり。かくの如くして死するまで月に一度の別時をし、いたる人もあり、また日に一度時を定めて何ん時にてもし、いたる人もあり、或いは又一年に一度する人もあり、正五九月に三度する人もあり。尋常の念仏日料のほかにかかる別時する人もあり。これぞ善導の或いは一生を尽くしての文の心なり。また相続無間に一期する人もあり、最上根の人なり。